はじめに

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2013年9月6日金曜日


 

狂歌明日か

アイスマン

アイスマンで済んだつもりか千年は詫びろ謝れ金を出せ

 

エー、ハワイへ行ってまいりました。何せ生まれてこの方、初めてなもんでナ。珍しいことばっかりで御座いました。朝方早くから、ホテルの外が妙に騒がしいので、窓を開けてみますてぇと、何か大きな声をだしながら歩いている人がおります。

「おーい、朝っぱらから煩せぇぞ!」

文句を言ってやりますってぇっとその男がこちらを向いて言いますんでナ。「オオ、アイスマン!」

「なにょぉと、相スマンで済むか!」

後で聞いてみたら、氷を売っていたんだそうで・・ナ。

 

六代目の春風亭柳橋がマクラに使った小噺である。ハワイ土産の出来たての噺だった。このマクラは12回位しか使っていないのではと思う。何度も使えるような代物ではない。何度も使えば野暮とされる。今の柳橋は八代目だから、先々代に当たる人のマクラを未だに覚えている。覚えているのには訳がある。この噺がとても刺激的だったからだ。

この小噺を聴いたのは60年前、中学生の頃だ。一般人の海外渡航は多分許されなかったし、許されていたとしても、そんなお金を持っている人は極めて限られていた時代だ。「憧れのハワイ航路」の時代は過ぎてはいたが飛行機に乗ることなんぞは、憧れも夢も超えていた。猫も杓子も行く今のハワイとはハワイが違う。そのハワイへ、飛行機に乗って行ったのだ。遊びではない。NHKの何かの企画だったようだ。行ったぞ、いったぞ、ハワイへ行ったぞ。柳橋の「で・・ナ」には誇らしげな調子が乗っかっていた。

聴いたのはラジオ寄席。テレビは始まっていたかもしれないが、家には勿論ない。ラジオも、もしかしたらNHKだけで民間放送はなかったかもしれない。アメリカとの戦争に負けて、日本は駄目な国で、アメリカはエライ、強い国だった。そんな国に駄目な国の日本人が行くことが出来るなんてことは考えられなかった。エライだけではなく、ハワイには太平洋戦争の口火を切って攻撃を仕掛けた真珠湾がある。そこへ行くなんぞは凄いことだ。そんなハワイに行った人達はとてつもなく偉い人に違いない。おまけに、爆撃で酷い目にあったのに、日本人を受け入れたハワイの人達はおおらかな心を持つ偉い人達である。

ハワイから帰ってすぐに英語を使ったマクラを考えた柳橋は一緒に行った日本人の中でも、飛びぬけて偉い。

戦後教育は占領下のアメリカによる骨抜き教育と引き続いての日教組による偏向教育が云々されているが、少なくともアメリカによる教育は真にもって巧みに行われた。多くの人がアメリカは素晴らしい国で、エライ国だと思っていた。巧みにという意味は、未だにアメリカとどこかの国が対立すると、なんとなくアメリカの肩を私は持ってしまう。カダフィーにしろ、ウサマにしろ、彼らは悪い奴だ。今はアサドと正恩がその地位を占めている。それが教育の成果だということにすら思いが行かない。洗脳という言葉が合っているのかどうかも判らないくらいに、身についている。巧みだ。

そういう素地があったところへ、ハワイの人が温かく日本人を迎い入れてくれた。そこへ行った人、そしてその素材を使った人。柳橋のマクラは温かい気持ちにしてくれた。まぁ、言ってみれば左程でもない駄洒落だ。しかしながら、半世紀の年月を超えて覚えているだけのインパクトがあった。

ハワイのアイスマンより前から知っているアイスマンがいた。小学23年の頃だ。

「エー、キャンデ、キャンデー!アイス、アイスキャンデー!」

戦後も少し落ち着いたのだろう。町内に物売りが来るようになった。その中にアイスキャンデー屋があった。アイスキャンデー屋のおじさんは、自転車を引き、その荷台にアイスを入れた箱を積んできた。木箱である。木箱の蓋を開けると白い湯気がうっすらと上がった。一緒に甘い匂いも漂って来た。おじさんは毎日来るわけではなかった。当時のことだからアイスを買えるお金を持っている子は滅多にいなかった。近所のガキども皆でおじさんの自転車にくっついて町内を回った。角に自転車を止めて、箱のふたを開ける光景を覚えているのだから、誰かが買っていたのだろう。自分が買った覚えはない。友達が買った記憶もない。多分大人が買って、家へ持ち帰って食べたのだろう。誰それちゃんの親が買って帰ったという記憶もない。それでも、そのアイスを食べたことはある。匂いの記憶と味の記憶があるのだから、何時もいつも、箱から出てくるのを嗅いでいただけではなかったのだろう。

「出来たてのホヤホヤ!ミルク入りの、あまーい、甘い!」

「出来たてかー、ほやほやかー」

時におじさんは、客もなく、アイスを買わなくても箱のふたを少し開けて、白い湯気が立ち上るのを見せてくれた。間違いない。出来たてのホヤホヤだ。

「おじさん、何本売れるの?」

チラッと横目で質問をした子を見ながらおじさんは調子をつけて答えた。

「エー、千本、千本・・・」

物言いはアイスを売る時の口調と同じ抑揚と調子だった。

「千本かぁ。ド凄いじゃん!」

小学校の低学年の子にとっては、大人というのは住む世界が違った。しかし、子供は結構見る目を持っている。それもあまり感心しない目だ。何本売り、それがどういうことなのか判ってはいない。質問の口調にはからかいの響きが混ざっていた。答えの千本も出まかせと判っていた。

そのおじさんが市会議員に立った。いつもの自転車に乗って、街頭演説をぶって回った。

「平和!平和と・・・、民主主義を・・!」

右左に顔の向きを変え、手を振り、身振りよろしくおじさんは演説をした。自転車にはアイスキャンデーの箱ではなく、もう少し背の高い箱が載せてあった。演説をする時にはそれを台にして一段高い所から熱弁をふるった。その姿を見て、なんか別の人になってしまったような気がして、寂しさを感じた。おじさんの演説はかなりの熱弁であり、力強かった。ただ中身は二つだけだった。私たち小学校低学年児童にも理解できる平和と民主主義という単語だけを繰り返えしていた。思えば、平和と民主主義は低学年児童でも知っており、それなりに判ったのだから、戦後教育がそれなりの機能をしていたことが判る。

演説の内容からではなく、このおじさんは落選すると思った。おじさんには、戦後民主主義に乗っかって、うまいこと市会議員にでもなってやろう的な、邪さの影があった。偏見を持っていたのだろう。その偏見も、アイスキャンデー屋ごときがという職業上のことではない。子供にからかわれるときのあしらい方とか、破れたズボンをそのまま縫いもしないで穿いていたというような、見て呉れに対するものだった。そう思う。

予想通りおじさんは落選した。落選は子供同士の噂話である。噂話が出たのは、その選挙の後、おじさんアイスキャンデー屋の姿を見かけることが二度となかったからだ。どうしちゃったんだろう。どこかへ逃げたんだそうな。市会議員に落選すると逃げなくてはいけないのか?そう、逃げなくてはいけないようだ。へぇー。市会に出るだけでも金が要る。使った金をどう工面したのか。そういう大人たちの話を小耳にはさんだ。

逃げたのかどうかも判らないが、一人のアイスマンが姿を消した。

それから四十数年後、アイスマンの遺体が発見された。イタリア・オーストリア国境のエッツ渓谷で。アイスキャンデーを売っていたおじさんではない。五千年前に追い詰められ殺された人のミイラ姿である。そのニュースからおじさんを思い出した。殺されたのかなぁ。ロクな連想ではない。相スマン事で。

私が知っているアイスマンの行方、消息は未だもって不明である。

 

憲法違反御取り調べのこと

 

選挙が一票の格差ゆえに憲法違反となり、関係者の取り調べが行われた。投票した人は関係者だ。警察署は猛烈に忙しかった。

警官「ハイ、次の方どうぞ」

男1「Aですが」

警官「ハイ、特に言うことがなかったら、そこにある調書に署名捺印をしてください」

男1「これでいいでしょうか」

警官「ハイ、次の方どうぞ」

男2「Bですが」

警官「ハイ、特になかったら・・」

男2「署名しないとどうなりますか」

警官「ハイ、一通り取り調べをしますので時間がかかります」

男2「面倒なので署名をします」

警官「ハイ、ご苦労様。次の方どうぞ」

男3「Cですが」

警官「ハイ、特になかったら・・」

男3「私は白紙で投票しました。したがって違憲とは何のかかわりもありません」

警官「ハイ、では取り調べが必要ですから、取調室の方へ・・。次の方・・・」

男が連れて行かれた取調室には定員を何倍も超える人が詰め込まれていた。

男3「おい!こんなにギュウギュウ詰めでは息も出来んぞ」

警官「ハイ、一応その程度までは合法とされていますので・・。次の方・・・」

(2013.9)