はじめに

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2015年6月6日土曜日

狂歌明日か
なにわのこと
アシモトのトオル道筋通されず
難波のことは夢のまた夢

 大阪都構想の住民投票が行われ、反対多数で否決された。NHKのニュースで開票状況を見た。否応二托の結果だから判りやすい。その一進一退ぶりに興味をそそられ、すっかり見入ってしまった。画面では賛成が数千票の差をつけリードしている状況で、突然、反対多数で否決されたとアナウンサーが少しばかり慌ただしく言った。どんでん返しの劇風な展開であった。一瞬どうした、なんだろうと合点がいかなかった。
合点はいかなかったが、やっぱりなぁと思い、結果には納得した。
スコットランド独立に関する国民投票が先月行われた。あの時の結果と相似形である。僅差ながら、提案は否決された。スコットランド国民と大阪市民は同じ反応を示した。
いい加減な推測である。
実は投票結果はどちらも、民意を示し得なかったのだ。スコットランドは独立を、大阪は都を本当は得たかったのだ。否決された理由は、可決する事が怖かったからだ。
他人様の気持ちを推し量るのは思い上がりの誹りを免れないから、己の気持ちで推し量ってみる。自分のとるであろう行動とかなり一致する。
スコットランドにしろ大阪にしろ、物事が前に進み改革されることは望ましい。改革は望ましいが、その先にあるかもしれない不安定さ不安感は免れない。
スコットランドでは、いよいよ決意をしなくてはならなくなった時、一部の人たちがビビった。独立したいが、本当にこの先、独立国としてやっていけるのか。
大阪でも、その時に至って一部がビビった。ただ若干違うのはスコットランドの場合、国の行方を考えた人がビビったのに対し、大阪の場合は地下鉄の無料乗車券とかの類が無くなるのは嫌だ的ビビりが入っていたようだ。スコットランドは遠い国だから情報が浄化されて入ってくるから、この手のビビりもあったかもしれない。ビビりを入れるのは、今の生活がよりマシで、変革によってマシさが無くなるのを恐れるからだ。そう言う意味合いからは、大阪の人たちで、無料パスを貰っている人たちは程々にマシな生活をしているのだろう。勿論賛成多数で変革が行われたら、その人達の無料パスが減ることはあるかもしれないが、増えたりすることはない。それも見通して行動したのかもしれない。
ビビって、方向を変えてしまったと思わせる調査もある。事後に調査したところ、大阪都構想否決は拙いヨという意見が過半数を制した。都構想を進めるべしという見解である。投票ではなく調査である。対象は部外者だ。少し離れてみれば真実が判るというのではない。当事者は結果の影響を受けるが、部外者は何の影響もない。私なんぞも、否決にがっかりした一人だ。やってみりゃあいいじゃないか。好いこと6で悪いこと4なら帳尻が合う。自分は6にも4にもならない。気楽なものだ。
気楽でなく、どちらに転ぶか判らない。いくら説明を聞いても判らない。今の生活がマアマアでんナぁの人と言えば老人である。老人は日向ぼっこ程度でも居心地が良ければ動きたくない。雨が降らないと野菜が育たないのは判っていても、日向ぼっこには迷惑だ。野菜が育つ雨なのか、降り過ぎて冷夏になってしまうのか判らない。少しテコ入れすれば反対に回る。事実老人比率の高い区は反対票が多かった。老人の勝利である。
アベノミクスはデフレを脱して経済の転がり具合を良くしようというもののようだ。大きな目で見ればそうかもしれない。しかし私のような老人、ネンキンマンにはデフレ状態は居心地がいい。実入りは一定ないしは若干下がっても、物価が下がるので気が揉めない。先行き年金が貰えなくなるゾなどという脅し?も先行きの長さ、短さを考えると、まぁ俺が生きている間は大丈夫だろと思う。だから本当は止めて欲しい。大阪の年寄りは反対票を、若者は賛成票を投じた比率が高い。この度の大阪の年寄りの感覚は、良し悪しはさて置いて、十分に納得がいく。
変革、革命がおこる場合は、盗賊団的集団が武力をもって職業としてやる時と、多くの人々が飢えているか抑圧され生命に危険が及んでいる時だろう。普段は一般の人々は保守的であって何も疑問を持たない。生活に満足とまではいかないまでも、マアマア感はあるからだ。
虎でもなければ蠅でもない私には政治的な抑圧感などは、何もない。ましてや生命の危機感を感ずることもない。やれ癌だ、脳梗塞だ、心筋だ。メディアが囃したてるのと、薬屋が売らんかなと煽ることで病理的に抑圧され、危機感を覚えることはある。その程度のことだ。
年金で飢えを免れ、確たる思想信条などに欠ける身には思想上の抑圧もない。そういう意味からすれば、私にとっては極めて優れた政治が行われている。変革、革命を起こしたくなる人たちの数は、日本には、特に年寄りには多くはないと推測される。さはさりながら、種として、または国民として何らかの革命はとにかくとして変革は必要である。政治家たるものそれを怠ってもらっては困る。でも私には今の居心地がいい。
世の中に変革、革命を志している人は多いだろう。しかし但し書き付きではなかろうか。我田引水的発想から志す人。それを主張する事が仕事で、収入源となる人。世を憂い人を思って己を無にしてもと志す人。三番目の人は手をあげてください。多分一つだけではなくて、これらが混ざっているのだろうとは思うが、その比重がどれが高いのかということだ。
年はとっても改革にまい進する人、出来る人は偉いと思う。考えてみたら、若い頃でもそんなことは考えたことがあっただろうか。私は世代からいうと安中世代だ。周囲には結構多くの運動家がいた。冷たい目ではなかったが、横目で彼らを見ていただけだ。賛否がどうのではなく、少しばかり胡散臭いと思ったのと、そのような情熱の持ち合わせに欠けていたからだ。あれは安保反対運動であり、改革運動ではない。保守的な現状維持に反米で味付けした運動だった。
そのうちに、住民ではなく国民投票が行われる可能性がある。憲法改正だ。国民の多くは大阪都構想と似たような行動をするのではなかろうか。
今の憲法には実情と合わない点がある。
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した
近隣諸国には大小つき交ぜて前文に抵触しそうな国がある。
「・・・これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」
自分のことを棚に上げる訳にはいかない。ここらに係わる実態は抵触しそうだ。
9条が戦後の平和を国民にもたらした。護憲論者の言い分である。こんな簡単な論で騙されるほど日本人は馬鹿ではない。日本人で私より歳がいっている者は戦争を体験している。戦場を経験しないまでも、親兄弟が死んだ、空襲で爆弾や焼夷弾に追い回された、遺体を見た。戦争が終わったと聞いた時の安堵感は身に染みついている。日教組による戦後教育を言う人がいるが、あれは嫌戦運動ではない。左翼化運動だ。それとは無関係に戦争は嫌なのだ。それが根幹にあって、荒波を乗り越えたのだ。9条とは関係ない。
憲法は変えないと拙い。私はそう思う。しかしながら、この部分の憲法改正が国民投票に付されたら賛成しないと思う。理由は「今のままでいけるのなら、論理などはどうでもいいじゃあないか」である。投票予測で「反対」が多そうなら「賛成」に、競りそうな場合には「反対」に投票すると思う。改正が正しいと思うが、改正すると何か変わるかもしれない。よい方なら好いが、わるいのは困る。いざ変えてしまったらというビビりである。大阪老人衆と同じである。私だけではないと思う。老人性ビビり保守症候群とでも呼んでくれ。安倍さん!こいつらがくたばるのを見てから、国民投票にしないと、不成立間違いなしですぞ。

では小噺を一つ。

その後

橋下徹が大阪市長を退任し暫くしてからのこと、何やら看板をつくっていた。通りかかった市民がいぶかしがって尋ねた。
市「おや、橋下はんじゃあありまへんか。朝早くから看板作りでっか」
橋「お早うございます。私の新しい生活です」
市「新しい国だとか、憲法だとか書いたりしてますね」
橋「はい、その通りです」
市「政治からは引退すると言われてはりましたが?住民投票のリベンジで?」
橋「いえいえ。都構想はもう止めました。新しい挑戦です。ハハ・・トコウソウをやめて看板書き、トソウコウを始めました。塗装工です」
市「トソウコウ!なんと!恥の上塗りをやるおつもりでっか?」


(2015.6)