はじめに

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2014年7月6日日曜日

転校
やなことは思い出すたび腹が立つ思いだせなきゃなお腹が立つ

なにがしかの不調をおぼえ病院に行く。どのお医者様も似たようなことを言う。
「少し値が高いようです、少し何ですかねぇ。まぁ、年相応ですよ。薬を出しておきます。大丈夫でしょう」
そう言われる歳になっている。未来に生きるより、過去に生きる歳だ。それなのに、その過去についても少し前には覚えていたことを、ある日、ある時を境に思い出せなくなってしまう。今思い出せることを何ヶ月かで出来なくなるのは悔しいから、なんとかもがいて思い出してみることとする。
思い出す対象は小学校。もう六十有余年前の事だ。
私は小学校を4回転校している。4つの小学校へ行った。疑問を感じる人が何人かは居よう。転校が4回なら、5つの学校に行っているはずだ。その通り。延では5つの学校へ行ったが、1つの学校へ二度行っている。さらに厳密に突っ込まれることを思って、あらかじめ弁解をしておく。小学校、国民学校それぞれは2.5校である。学校名は順に「新川国民学校」、「下地国民学校」、「牛久保国民&小学校」、「下地小学校」、「福江小学校」だ。二番目と四番目が同じ学校だ。
四回転校するということが、戦争をくぐった世代としてはそれほど珍しいことではないのかもしれない。
入学は豊橋「新川国民学校」、ピカピカの一年生。昭和20年、終戦の年である。
現在住んでいるところから1Km程のところにある。覚えていることは二つ。一つは教育勅語。奉安殿から恭しく持ち出された教育勅語を校長先生が奉る。覚えているのは校長先生ではなくて、校長先生がしていた白い手袋だ。二つは訓練。軍国の小国民は隊列を組んで登下校をした。その時、隊列、分団にかかわる使役の訓練があった。内容がどのようなものだったかは記憶にない。一年生は「おみそ」でその使役が免除されていた。嬉しい免除だった。凄く助かった、好かったという安心感のようなものがあった。同時に使役を免れた後ろめたさが未だに心に残り、使役に就いている上級生達を横目で見ていたことを覚えている。授業とか教室、先生や同級生の記憶は全くない。6月に豊橋は空襲を受け、家は焼失した。この学校へは二ヶ月しか行っていない。それも警戒警報のサイレンが鳴ると家に帰らされていたから、ほとんど何もしなかったのだろう。
焼け出されて、親戚に世話になった。そこも同じ市内で空襲を受けて焼失していたが、焼けたトタンを利用した掘っ立て小屋に同居させてもらった。難民キャンプのTV映像を見ると、俺たちもそうだったなぁと思う。その時の学校が「下地国民学校」だ。
「戦争は止めることになったそうだ」ラジオは無かったし、新聞なんぞはとっていない。情報はすべ口伝えだ。「なんとか・・・だそうだ」という「そうだ話」だった。敗戦と言わず終戦という言い逃れが、口伝えでもなされていた。取りあえず戦争は終わった。その直前、1週間前に父親が戦死した。この学校で終戦をまたいだが、それほど長くはいなかった。ここでも先生や同級生の記憶は全くない。覚えているのは、トタン板を船状にして、焼け跡の瓦礫を積み、縄で引っ張って運んだことだ。ここでは使役に従事した。レンガ色に変色した瓦欠けを運ぶ使役だけの記憶は、寂しい限りだ。学校は焼け落ちて何もなかった。その年のうちに牛久保へ引っ越した。
「牛久保国民学校」これが三つ目の学校だ。暫くして「牛久保小学校」に改名した。牛久保町は隣の豊川市にある。ここが学校としてのスタートのようなものだ。ここで三年余りお世話になった。先生の顔を薄ボンヤリとしているが覚えている。名前を覚えている。一人は天野先生。もう一人は白井先生だ。天野先生は、小学校生活の中で先生と呼びたい先生だった。何がそう思わせるのか。具体的な記憶はない。私の事だから、大いに迷惑をかけ、その面倒を見てもらったのだろうと思う。白井先生は学校を出たばかりの女の先生だった。天野先生について見習いをしていたようだ。この先生の事で覚えていることがある。思うに、それは先生の初任給だったのだろう。ソフトボール用のバットとボールを買ってくれた。バットが頭の中にある。白木で焼印が押してあった。先端部分が少しけばだっていた。太めのバットだ。生徒何人かと一緒に豊橋まで買いに行った。当時の先生の初任給はどの程度のものだったのだろう。隣のクラスにも女の先生がいた。そのクラスで、達磨さんをやっていた。「達磨さん、達磨さん、睨めっこしましょ、笑うとまけよ、アップップ」というやつだ。そこで「アップップ」を「ワンツースリー」とやっていた。小国民の意識が残っていたのか、何らかのインプットがあったのか、この「ワンツースリー」が不愉快だった。アメリカかぶれしやがって。そう思った。隣の組の先生より白井先生の方が上だ。隣のクラスに勝った。誇らしい気分がした。
牛久保では市営住宅に住んでいた。これが居住者に払い下げられた。その結果そこを立ち退くことになった。買う金が無かったのだと思う。しかし母親はうまくやった。これを購入し売り払った。当時小さな家一軒がどのくらいしたものか。市からは格安で買い、買い手には市価相場で売ったのだろう。
そして再び「下地小学校」へ戻った。市か何かが運営する母子寮があり、そこにお世話になった。出戻った「下地小学校」そのものには一つとして記憶が無い。寮での生活では何人かの遊び友達に記憶がある。年上の人だ。一人は5×3の九九を「ゴサンがロク」となってしまう六年生のさんちゃん。オールドブラックジョウを英語で唄って、生意気だと叱りつけられた一つ上のお医者さんの子、オグラ君。九九を上級生のさんちゃんに教えていたのだし、オールドブラックジョウを英語もどきで唄ったのだから、学校に行っていたのは間違いない。二度転入した「下地小学校」だが、合計在籍期間は1年前後でしかない。短いから記憶が無いのか、何も記憶に残る出来事が無かったのか。学校に関しては完全な空白である。
四年生の初め「福江小学校」へ転校した。渥美半島の西部にある町だ。車で一時間ほどかかる。今は田原市になっている。ここに母親が職を得た。
転校に際して心掛けたことがある。転校も五校目となるとそれ相応のノウハウを身に着けていた。豊橋、豊川は文化圏としての差はあまり感じない。方言もほぼ同じだ。当時の渥美半島は少し違っていた。多分海を通じて、知多半島乃至は少し離れて伊勢地方との交流があったからだろう。気性的にも豊橋は百姓であり、渥美地方は漁師的な感じがした。「・・・だろう。・・・だ」と言うのを豊橋では「・・・だら。・・・じゃん」これを「・・・だが。・・・だがや」と言った。
転校生は先々の文化?に溶け込まなくてはいけない。学校の文化とは何か。遊びである。遊びには流行り廃りがあり、豊橋地方で流行っていたからとて、渥美半島で流行っているとは限らない。流行り廃りが生ずる原因に学校の干渉がある。流行りだし、それが先生の目にあまり始めると「明日から学校へ持ってくるな」と先生から言われる。陰に隠れてやっていると、バレる。バレると怒られる。その怒られ方で、流行りは突然廃りに至る。
「メンコをやろう」転校した時、豊橋で流行っていたメンコが、福江では流行っていなかった。私は「メンコ」と言ったが、豊橋では「パンパン」と言った。戦後の流行語である売春婦の事ではない。アクセントが違う。字で表せば「パ」である。何故かしらこの「パ」は豊橋地方の方言で、福江では通じないのではなかろうか。理由は判らないが、そう思った。「メンコ」は標準語だ。標準語で話せば通じる。話しかけられた相手は言った。「・・メンコ?・・」標準語が通じないのかと一瞬思った。「あぁ、パンキーな」通じた。「うん、パンキーやらまいか」郷に入れた。そう思った。郷に入るための処世術は小学校の時に養われたに違いない。その後の成長、変化の過程で役立ったものと思っている。
「福江小学校」では、イジメにあったり、一日中立たされたりしたことは、二年ほど前に「いじめ」で書いた。その時、一日中立たした担任の先生の名前は忘れたと書いたが、このたび思い出すことに成功した。鳥居先生だ。顔の方は鮮明に覚えている。ひょいと名前が浮かんできた。思い出したくなくて、忘れていたのではない。思い出そうと刺激し続ければシノプシスが繋がることもあるのだ。数学の証明問題を解いた時の快感と同じ気分がした。嬉しかった。もう一人、先生の名前を思い出した。大谷先生。これは音楽の先生だ。音楽だけは担任でなく、音楽の先生が教えていた。担任以外で名前を覚えているのはこの先生だけだ。多分。これは後付けかもしれないが、大谷先生の名前を覚えているのは、担任からの逃避が音楽の授業の時だけ出来たからではなかろうか。くだらない情けない。音楽は好きだし、歌を歌うのも好きだ。だから覚えているのだ。そういうことにしよう。わざわざ歴史を遡って、己を下卑することもない。
ここの同級生は中学校も一緒だったこともあり、思い出そうとすれば、何人かの人数が可能だ。
転校を重ねたのだから、多くの先生、多くの同級生とかかわったはずだ。しかし期間が短かったことと、その後の交流がほとんどないことで、記憶の外に押しやられてしまっている。私の記憶にないだけでなく、彼らの記憶にも残ってはいまい。その後の交流が少ないのは、中学から同じ高校へ進学したのが一人、高校から同じ大学に進学したのも一人。順を追って関係が薄くなった。今親しくしていただいているのは、高校の同級生、大学の同級生、会社の同期生、それぞれの先輩後輩の方々が大部分だ。そういう意味では私には故郷の地はあるが、幼馴染はいない。ガキの頃の馴染みがいない。振り返ってみて、人生のかなり大きな欠陥、欠落ではないかと思う次第である。


 開催前は設備がどうのと心配されましたが、コッパ ド ムンドは予定通りに行われているようです。これを祝して、日伯にかかわる小噺を一つ。

天国の経済

ブラジル人と日本人の友人が一緒に身罷り、天国へきていた。しばらくして一緒に食事をした。日本人は寿司、ブラジル人はフェジョワダを食べた。食べ終えて銘々が支払いを窓口でした。
日「お幾らですか」
窓「寿司ですね。5百円です」
日「はい、有難う。5百円」
伯「お幾らですか?」
窓「えぇと、フェジョワダは5ヘアルです」
伯「ハイ、オブリガード」
日「同じ5でも、円に直せばお前の方は230円ほどだ。俺の方が高い。寿司が高いのか、日本の物価が高いのか?」
伯「ここでは母国の通貨で、お金を貰っているのだから何か関係があるのかもしれないナ」
天国ではそれほど腹が減るわけではなく、しばらくご無沙汰していた。久しぶりに、飯でも食いながら話をしようと二人揃って、同じ食堂へやってきた。
日本人は寿司、ブラジル人はフェジョワダと、前回と同じものを食べた。
日「お幾らですか」
窓「525円です」
日「おや?前より高くなってますね」
窓「はい、値上がりと消費税増税の分が高くなりました」
日「ほぉ、そういうことですか」
伯「お幾らですか?」
窓「8ヘアルです」
伯「ハイ、オブリガード」
日「そちらは酷い値上がりだナ。いったいどういうことだ?」
伯「何で?物の値段が上がるのは天国では当たり前だヨ」
(2014.7)