はじめに

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2015年2月6日金曜日

ロバの行方
「拉致」に「出禁」人の意思
        ロバの「行方」は神の意思
         「人質」一体何の意思


「格言」というのは、成程なぁと思わせたり、そんなことはなかろうと思わせたりもする。「アラブの格言」という曽野綾子の本の中に比較的成程よりの格言を見つけた。
曰く「神が貧しい人を幸福にしようと思ったなら、彼のロバを行方不明にして、それからまた見つけ出すようにしてやればいいのだ」
神様のやることとしては小意地が悪い印象はあるが、トルコの格言とされている。トルコはアラブかと疑義のある方は著者にお尋ね願いたい。
ここでいう貧しい人と言うのはどの程度の貧しい人なのか。私たち日本人が、貧しい人を思う場合、立場と想像力の欠如もあり、ずれを生じる可能性がある。
私はネンキンマンだ。長く年金暮らしをしている。これを読んで頂いている人には、似たような生活をしている方が多くいると推察する。自分自身としてはまぁ程々に、のんびりと生活しているつもりだ。そうでしょう?当然と言われそうな気がする。理由がある。私の年収は、世界ランキングではかなりの上位なのだ。だから生活に余裕があり、のんびりと出来て当たり前なのだ。日本人の平均と同じ年収を得ている人は、世界人口の1%に満たないらしい。人の懐具合をどうこういうのは憚られることではあるが、多くのネンキンマンの年収は日本人の平均よりは少ないであろう。残念というか、当然というか、私の年収は平均より間違いなく少ない。それでも、その私より収入が多い人は世界に3%とはいないらしい。97%の人達は私より少ない年収で生活しているということだ。生活という場合には、物価に差があるから少し割り引いて考える必要はあるのだろう。収入という観点からは、世界レベルで私は金持ち、もしかしたら大金持ちに属する。世界レベルではそういう立ち位置なのだが、町内で感ずるところでは、貧乏側3%に間違いなく属している。町内の大多数の人たちは、ネンキンマンではない。皆さん、衰退が言われて久しい地方都市の真っただ中で、多くが自営業を営み、堂々たる収入を得ている。そういった町内にあっては、私は間違いなく貧乏人だ。世界では金持ちで、町内の実生活の中では貧乏人として、慎ましく生きている。そのような訳で「神が貧しい人を・・・」と言われると、身もだえしたくなる。自分の事か、はたまた他の誰かの事なのか。少しばかり困ってしまう。
貧しいロバの持ち主がロバをペットにしている訳は無い。ロバを使って水汲みをし、それを売る公益事業を行っているか、荷駄を運んで運賃を得る運送業を営んでいることなどが考えられる。彼が失ったロバは生活の手段そのものであったに違いない。それを見つけ出すというのは、再就業が可能になるということだ。収入の元手を確保するのだ。しかもその収入は生活、などという言葉だけでは足りず、生き死にかかわる手段の回復であろう。そう思えば、彼が感ずる幸せ感は推測できそうに思う。少し疑問が残るのは、この手の復旧状態をもって幸せと言っていいのかどうかである。幸せ感というより安ど感と言った方がいいのではなかろうかとも思われる。
私には生死に関わるような事物を無くした経験は無い。空襲で家を焼け出されたが、子供だったから生活手段確保に関与しておらず、喪失に係わる実感はなかった。
小さな金品での幸せ感の記憶はある。笑われそうなことではあるが、好かったなぁと思ったことがいくつかある。今風の言葉でいえば「ラッキー!」と言った程度の事である。
PCのプロバイダー、ニフティのホームページに「宝くじ」というのがある。ガチャガチャをクリックすると当たり外れが表示される。幾つか等級があるようだが、一昨年は2回ほど当たった。昨年は0回だった。挑戦回数は年間600回以上に及ぶ。確率は決して高くない。当たったのはニフティの料金から100円引いてくれるというもので、年賀はがきの当りでいえば切手シート相当である。これが面白くて毎日やっている。当たった時は、とてつもなく儲けたと感じた。とは言え、百円コッキリの事である。とてもロバは買えない。超がつく貧乏人の幸せ感である。本物の宝くじでも何回か三千円が当たったことはある。しかしこれは当たっても嬉しさを全く感じない。元を取り戻しただけだからだろう。
その昔、高校生の時である。銭湯の帰り、豊川(トヨガワ)の橋の近くを歩いていた。薄暗がりの中で、路上に十円玉を見つけた。拾うと、少しおいて先にもう一つあった。さらに先にもう一つ。もしかしてと、屈み込んで探してみたがそれ以上は見つけられなかった。都合三十円。一つ目の十円玉を見つけた時は、おやまあと思った。二つ目には、あぁもう一個あったと思った。三つ目で薄気味が悪くなった。気味悪くはなったがそのまま頂いてしまった。当時の30円は現在の500円以上の価値があったはずだ。「ラッキー!」という気分は薄かった。あくる日従兄弟とその金でウイロウを買い食いした。卑怯にも、共同責任に逃げ込んで薄気味悪さを免れた次第だ。
失ったものが還ってくるのは、安ど感と言ったが、幸せ感を感じたことがある。ここでも決して大きな失せ物ではない。
昨年の事である。ゴルフの帰り、ガムをコンビニで買った。少し長い距離を運転する時は眠気防止にガムを噛むようにしている。支払いのため、小銭入れから千円札と硬貨を取り出した。硬貨だけで勘定は足りた。その時千円札を落とした。二つのものを手に持つと一つを落としても気がつかなくなっている。気をつけてはいるのだが、このところ結構頻度が高い。コンビニを出たところで小学校の一、二年生くらいの男の子が、「落としましたヨ」と追いかけてきて千円札を差し出した。勘定の時後ろに並んでいた子だ。手元には千円札が無い。私のものに違いない。偉い!素晴らしい子だよ君は! そう言いたかったのに適切な言葉が出なかった。「有難う」と言っただけだった。ロバが還って来た。ロバは神様の企みごとだが、千円札は子供の行動だ。千円が還って来たことより、子供がそうしてくれたことが嬉しかった。安ど感ではなく幸せ感一杯であった。「有難う」はお金が戻ってきたことにではなく、君の行為を見せてもらった嬉しさから出た言葉だった。買ったガムを口に入れるのを忘れて、心安らかに車を家に走らせた。
日本へ旅行に来た外国人の間で評判になっていることがいくつかある。結構いい評判のものが多い。その中の一つに、日本では財布や鞄を落としたり忘れたりしても戻ってくる、というのがある。中国人のブログでよく見かける。出てくるのは兎に角、どうしてそんなに多くの人が忘れ物、落とし物をするのかと思える程である。それも、失せ物が絶対と言っていいほど戻らないお国の方々がやらかしている。さはさりながら、この手のお話を日本中にばらまくのは、見聞きしている人が楽しく、自己満足感を醸成するだけではない。いい気分にして、日本人に大いなる情操教育を施している。日本では・・・、日本人は・・・。日本人として特筆すべき行動をTV番組でも放送し、これが教育となっている。日本人の特性としてひっくるめて褒めまくる。ナショナリズムを煽るためにしていると誹る人がいる。いいことをするのを誇りにするのが悪いことのようだ。へそ曲がりだ。他国の悪口を言ってナショナリズムを高めるより遙かに優れている。この期待感を、誇りを裏切りたくない人が増殖する。私に千円札を拾ってくれた小学生がこの種のTVを見ていたかどうかは判らない。少なくとも、私自身が財布や鞄を拾うか、見つけたら、日本では・・、日本人は、が直ちに頭の中に浮かび、持ち主の元に戻すべき行動をとる。厳しく言えば、とらざるを得ない気持ちになっている。
失せ物を持ち主に返す。これは今に始まったことではない。「芝浜」という三木助が得意とした落語がある。江戸のお話しだ。魚屋の熊さんは芝浜で五十両入った財布を拾う。熊さんは財布を返す気は毛頭なかった。いい気分で酒を食らい、酔っ払って寝てしまった熊さん。それでいいのかと心配なかみさん。拾ったことが知れるとどんなお咎めを受けるかもしれない。相談した大家にそう言われ、かみさんはお上に金を拾得物として届け出た。大金だ。自分のものにしたい。世間、お咎め。葛藤の中で届け出た大金は、三年後に落とし主が無くて下げ渡された。熊さんでなくても、五十両は大金である。江戸時代から、こうした葛藤を潜り抜けて、現在がある。現在で格好いいのは、世間とかお咎めという圧力ではなくて、民度という言葉で財布戻しが語られていることだ。民度が高いから、財布が戻る。まぁ、民度で良い。今の日本人は貧乏じゃあない。平均収入でも世界ランキングの上位1%に入る。金があるから民度が醸成されているというと身も蓋もない。その昔、熊さんもかみさんも貧乏だった。その時は世間とお咎め。今は民度。いいじゃあないか。民度を高めておけば、今より少し貧乏側にずれても、熊さん+かみさん並の事が出来るというものだ。いい国だ。
ロバの格言で、神様はロバを行方不明にするところまでやって、見つけ出させるのを忘れたりはしないだろうか。一人でそんなに隅々まで目が行き届くだろうか。少しばかり心配だ。
日本では多神教が主流だ。神様は分業が進んでいる。貧乏人には専業で貧乏神がついている。一見金持ち風でも、福の神が取り巻いて貧乏神が出るに出られずなどという、神様の数が住人の数を上回ったりしていることもある。当家に居るのは福の神か貧乏神か判らないが、正社員らしく勤続年数は長い。定年が何時なのか。定年があるなら延長して、もう暫くいて欲しい気がある。後任に派遣社員たる死神が枕もとに出っ張ってくるのを先延ばししたいものだ。
自分の事だけではいけない。民度の高い日本人としては他人を思いやる心がけが必要だ。神様。どうぞあの貧乏人のロバをお忘れなく、よろしくお願いいたします。失せ物を届けてやってください。出来ればロバだけでなく、「拉致」そして「出国禁止」の方々にも気を配って頂けたら、貧富を問わず、多くの人たちが喝さいをし、幸せを感じます。「人質」の方もお願いできるとよかったのですが。今はそちらに行かされてしまったようですから、そちらでよろしくお願いいたします。

では小噺を一つ。

信賞必罰;又は天網恢恢疎にして漏らさず

パリ新聞社襲撃テロ犯のサイドとシェリの二人が、射殺されて冥界に来た。傷口が癒え、気がついた二人が周囲を見渡すと、一面のお花畑で小鳥たちがさえずっていた。少し進むと「天国受付」と看板が架かっている建物があった。
サイド「おぉ!天国だ!」
シェリ「ウーン。間違いない。天国だ」
入口をはいるとカウンターがあって、所定の書類に記入をするように促された。記入された書類に目を通した受付係が言った。
受付「あぁ、最近話題になったサイドさんとシェリさんですね。お待ちしておりました」
サイド「お!さすが神様。チャンと俺たちを見ていてくださったんだ」
シェリ「俺たちは預言者の名誉を守り、その功績で天国に来られたのだな!」
受付「そのようですね。神は偉大です」
サイド・シェリ「おぉ!神は偉大なり!」
受付「これが滞在許可証です。内容を確認の上、間違いないようにしてください」
シェリ「有難うございます。おい、サイド。ちゃんと見てくれ、俺は涙で良く見えない」
サイド「勿論、見るとも。・・・」
サイドは書類に目を通した。
サイド「ちょっとお尋ねしたいのですが」
受付「何かお判りにならない点がありますか」
サイド「滞在期限という欄に1年間となっていますが、なんでしょうか?」
受付「え?あぁ! 貴方がたは預言者の名誉を守ったことで、天国にきました」サイド「誓って、その通りです」
受付「そのために、多くの人を殺めました。1年間は信賞分ですが、その後は必罰分になります。全てを見られている神は偉大です」

(2015.2)