はじめに

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2015年12月6日日曜日

理不尽なお話;おきゃあせ
タワケタことを言やあすな
チョオラカシちゃあいかんがね オキャアセお前にゃ用はない

ノホホント暮らしてきた程度に合わせるように世の不具合に遭遇してきました。先月号では税務署という世の中ではかなり怖い官へ精一杯の物言いをいたしました。今月は民へのものです。勿論愚痴です。それもプチグチ。理不尽などというタイトルは誇張も好い所で、世の中のお役に立つようなことは一つとしてありません。所謂屁の様なお噺です。屁は臭くて世の人を不快にさせますが、匂いもなさそうなお噺です。前置きが長すぎます。
「おきゃあせ」という言葉が名古屋地方にありました。過去形で申し上げているのは近頃聞く機会が無いのか、話す人がいなくなったからか判りかねますが、とんと耳にしません。
私が生まれ、今住んでいるところは三河地方です。当然ながら三河では尾張弁は聞けません。「おきゃあせ」は名古屋、尾張地方の言葉です。これが名古屋弁なのか尾張弁なのかも定かではないのです。「やめときなさい」と言う意味だと認識しております。
昔、尾張の殿さまで徳川宗春という方が見えました。将軍になった吉宗公に対抗してか、逆らった政策をとったそうです。お蔭で名古屋文化が東西に無い文化を発展させたということです。「おきゃせ」は流れに逆らう精神の名残かと思います。
「おきゃあせ」は止めておけという意味だと言いましたが、インパクトのある使い方としては、物の売買の時に使われます。それも商人同士の売買ではなく、店先での店員とお客の間で使われます。
「こりゃ何所の品でゃぁも、チイともいいとこありゃせんがや」
「あっちのもんだで、好いに決まっとろうが」
「高きゃあなぁも、まぁすこしまけときゃぁ」
「おきゃあせ」
なにせ尾張弁に精通していませんので、脇からお小言を頂きそうです。客が品物にケチをつけ、値切っているつもりです。それを店員が好い品物だ、負ける訳にはいかない。買っていただかなくて結構です。店員としましたが、大方は店主でしょう。
お客様は神様です。そう祭り上げられて久しくなります。私なんぞは一方的に神様側です。尤も福の神か貧乏神かは知るところではありません。今では、買い手がすっかり自分は神様だと思い込んでいますから、売り手がそれに逆らおうものなら大変です。少し前までは売る側に元気と格調がそれなりにあったのです。特に名古屋地方には、売る側は売る側、買い手は買い手の矜持があり対等に渡り合っていたようです。
「おきゃあせ」は実はかなりきつい言葉で。「やめておきなさい」などと言う軽いものではないようです。「気にいるいらんはお互い様だ。買ってもらわなくて結構だ。さっさと帰ってくれ」位の意味合いがありそうに思われます。そうですネ。ネイティブ尾張の方の助言が必要です。これだけきついと、お客様至上主義体制下で生き残ることは難しいとは思います。
「おきゃあせ」死語化の第一歩は、名古屋地方に大企業が進出ないしは成長したことにあるように思います。売り手買い手の関係は、店と客だけではありません。下請けと大企業との関係はもっと鋭角です。その時期、私は買い手側に居たので、売り手側に居た人の見解を伺いたいと思います。「おきゃあせ」なんぞと言おうものなら、さっさと仕事は引き揚げられてしまいます。
第二歩はインターネットなるものです。あの店は「おきゃあせ」と言ったなどとケチをつけられようものなら、たちまち情報が広がり、お店は潰れてしまいます。「おきゃあせ」は段階を経て死語となってしまいました。
話は飛びますが、京都での事です。今は昔です。京都観光をしました。名の通った観光地巡りを終えた晩、ホテルの界隈を娘夫婦ともども四人でそぞろ歩きをしました。
一軒の店に入りました。八つ橋を売っているお店です。カウンターの中におばはんが一人いました。店の奥で八つ橋製造の機械がガラスケースの中で稼働していました。製造法を見せることでその店の直販品であることを強調しているのだろうと思いました。おばはんと言うのはお婆さんと呼ぶには少し申し訳ないが、女の人と言うには勿体ない年格好に見えたからです。八つ橋ができる様を見ていると、そのおばはんがカウンターから声をかけてきました。
「あんさんがた、見るだけで買わしまへんのやろ」
もしかしたら「あんさんがた、・・の次にドウセ」と言う単語が入っていたかもしれません。何せ、京都弁などと言うみやびな言葉は尾張弁に以上に精通していませんから、もしかしたら言葉遣いが違っているかもしれません。しかしながら、日本語の一種ですから言わんとするところは十分に理解できました。何故かしらその時思ったのです。これは名古屋弁で言うところの「おきゃあせ」だ。言葉はさて置いて、思想信条がこの地にまで蔓延るほどになっているのではないか。名古屋の力がかなり強くなってきているのだ。私達は八つ橋ないしは他のものにケチをつけてもいなければ、まけろとも言っていません。店に入っただけです。いきなりの「おきゃあせ」はないだろう。私達が店に似つかわしくないなりをしているか、迷惑のかかるようなことを仕出かしたか。先方の判定なのでなんともしようがありません。殆ど声を出した覚えはないので、みてくれ、人相、服装の外観で判定されたのでしょう。
犬と下流老人は入るべからずと書いてなくても、入ることを遠慮してしまう領域はあります。京都ともなるとそういった場所があっても不思議ではないのかもしれません。しかしあえて言えば、たかが八つ橋屋が客の差別をするほどの領域とは思えません。
その昔、ニューヨークは五番街でティファニーなる店を見つけました。「ティファニーで朝食を」という映画のタイトルからティファニーはてっきり喫茶店だという思い込みがありました。そうだここで何か飲もうと思ったところ、すぐに俺が入るべきところではなさそうだという雰囲気を感じ、止めたことがあります。後にそれが正解だということを知りました。お呼びでない!これまた失礼!の雰囲気です。こういったところに失礼しない程度の勘は持っているのです。此処京都の八つ橋屋さんからはそのようなオーラは感じられませんでした。
京都では家に来た長居の客に「お茶づけでも用意します・・ごゆっくり、・・・」と言って帰ることを催促すると聞いたことがあります。相手を傷つけないように配慮されているとかです。ここのおばはんは本当に京都の人なのでしょうか。婉曲丁寧、慇懃無礼ではなく、かなり直截で正直な物言いです。
「あんさんがた、見るだけで買わしまへんのやろ」に答えました。
「そうだ、八つ橋を50個下さい」
私はおばはんの方に向き直って言いました。おばはんは私の言葉が判らないようでした。三河弁では通じないのかなぁ。
50個って、50箱のこと?そんなに沢山どうするの!」
家内がすぐさま声をかけました。娘もそれに同調して言いました。
「そんなに沢山じゃあ持てないわよ!」
「そうだな。じゃあ三つにするか」
おばはんはやり取りが判ったらしく、八つ橋の箱に手を伸ばしました。
「あぁ、いいや、買いません。止めときます。・・ココデは」
終わりの方のココデは辺りの声は少し小さくなっていました。さらに小さく「・・・クソババア!」とイ汚く罵っていました。私としては唱えるべき言葉を間違えていました。「おきゃあせ」が京に上っているのなら「・・・クソダワケ!」と言うべきでした。お許しください。

それでは小噺を一つ。

ナッツ姫

飛行機を引き返させたナッツ姫は航空法違反で刑を受けた。刑期を終えて久しぶりに自宅へ帰り寛いでいた。
ナ「そう言えば、あの時ナッツを食べようとしていたんだヮ」
マカデミアンナッツを持ってくるように指示された家政婦は小皿にナッツを盛って来た。
ナ「袋から出してサービスするのはわが社のマニュアルに反すると言ったではないか。その所為で私は牢屋に入るはめになったのよ!」
家「申し訳ありません。袋のまま持ってまいります」
家政婦は袋に入ったままのマカデミアナッツを持ってきた。ナッツ姫はおもむろに袋に手を入れ、ナッツを取り出して口に頬張った。
ナ「フヌ?!」
口の中でガリッという音がし、思わずナッツをほき出した。
ナ「歯!これは歯ではないか?!異物混入でメーカーを訴えなさい!」
家政婦はその形相の凄まじさに仰天し、姫の顔を見つめたまま返事をした。
家「間違いなく歯でございます」
ナ「物を見なさい!よく見もしないでいい加減な返事は駄目です。それは歯ではないか?!メーカーの衛生管理を問うているのです!」
家「ハイ!見なくとも判ります。貴方様の前歯が欠けております」

(2015.12)