はじめに

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2020年7月6日月曜日

万年筆とバット


万年筆とバット


山影と店の名残す故郷の

道は広く長く伸び



 中日新聞の地方版に「オーテ万年筆」が載っていた。我々の年代の豊橋人にとっては老舗名店舗の一つである。

豊橋市内の旧跡を尋ねての記事だ。市の中心部、広小路通りに店と看板が残っていてその写真が出ていた。看板に見覚えがある。

何度も前を通っているのに気づかなかった。屋根の上に突き出た万年筆の大きな看板である。散歩がてらに行ってみた。涙がこぼれないほどに上を向いて歩かないと気づかない。おまけに、色が薄黒くて映えない。退色してしまったのだろう。ここの店は閉めてしまい、別の場所でやっているとのことだ。

「オーテ万年筆」で初めて万年筆を買った。高校生の時だった。

それより昔、小学校時代に万年筆を持っていたヤツが一人だけいた。他の同級生は鉛筆と消しゴムだけが筆記用具だった。学校は渥美半島の先っぽ、福江という町だ。

一人だけ万年筆を持っていたヤツは、名古屋の旅館で買った。オサミという名前だ。

小学校の修学旅行は名古屋一泊だった。ほとんどの生徒が初めての大都会である。修学先で覚えているのは唯一NHKだけだ。貝殻を使った蛙の鳴き声、豆を糸で通してぶら下げた渋団扇を仰ぐ雨音。蓑に入れた豆を揺らして波音を聴かせる。NHKとはいえ、専らラジオ放送の時代である。擬音というか効果音というのか、その造り方は驚きだった。

その一泊の旅館に、物売りが来た。今にして思えば、寅さん的売人である。万年筆を何本か取り出し、口上を述べた。万年筆なるものの適正価格など田舎小学生には判らない。判らないが、それが貰ってきた小遣いの範囲であれば買える。先生は側に居なかったと思う。売人も旅館の許可を得て入っているのだから、それなりの者なのかもしれないし、適当に結託していたのかもしれない。一人だけ、オサミが買った。他のヤツは誰も買わなかった。怪しげななどと思ったからではない。金を持っていなかっただけだ。

オサミは自慢の万年筆をしょっちゅういじっていた。字を書いているわけではなく、キャップをはめたり、はずししたり、インクを入れたりしていることの方が多かった。

中学に入っても、彼は万年筆を手慰み道具にしていた。

英語がベラベラ喋れるので、ベラさんと呼ばれていた先生の時間だった。ベラさんは英語と職業を受け持っていた。どちらの授業だったか覚えはない。万年筆をいじっているオサミの前にベラさんが来た。注意をしに来たのではなさそうだった。先生にとって万年筆なんぞは珍しくもないだろうが、オサミの手元を見ていた。オサミは先生に気がついていなかった。何故かオサミの手が滑ったのか、ペン先からインクがピューと飛び出した。顔を上げたオサミとベラさんは顔を見合わせた。ベラさんの白いワイシャツにブルーブラックのインクが着いていた。顔を見合わせた二人は見つめ合ったままいた。今風に言えば、静止画像である。どういう始末となったか。静止画像以降の記憶は無い。

「オーテ万年筆」で初めて万年筆を買ったとき、静止画像のシーンを想い出した。この度の新聞記事で想い出したのも静止画像である。

そういえば「ミカド運動具店」がこの近所にあるはずだ。こちらも老舗店である。広小路通りを二往復ほど行き来してみたが、それらしい店はなかった。運動具店は万年筆店ほどの単品販売ではない。この手の店もチェーン店でないとやってられないのかもしれない

「ミカド運動具店」はソフトボールのバットを買った店だ。正しくは買いに行った店だ。小学校3年生になりたての頃だ。当時、隣の豊川市の牛久保小学校にいた。延べ5つの小学校に在籍したが、3番目の小学校だ。小学3年生がバットを買えるわけがない。白井いう名前の女先生が買った。先生はその年学校を出たばかりで、私たちの受け持ちになった。担任ではなく、担任見習いだったのかもしれない。その白井先生がバットを買ってくれる。初給料だったのではなかろうか。バットを買うために豊橋へ行く。運動具と言えば「ミカド運動具店」だ。今は物を買う場合、店の数も多く、何々はどこそこというような買い方はしない。安ければネットで買う。当時は豊川にはそういう店がなかったのかもしれない。万年筆は「オーテ万年筆」で、バットは「ミカド運動具店」とされていた。私は豊橋出身だから「ミカド運動具店」を知っているだろうと同行者に選ばれた。豊橋までは飯田線だ。他に二人ほどが一緒に行ったと思うが、運賃も先生が払ったに違いない。丁寧に時間をかけてバットを選んだ。専ら先生が品定めをした。生徒の私たちは若干の緊張感をもって眺めていた。

そのバットで何回かソフトボールをやった。白井先生も一緒にやった。学生時代にやったとかで、巧いなぁと思った。

先生の顔は思い出せない。バットは焼き印の周りが毛羽立ってきたのを思い出す。暫くして、私は4番目の小学校に転校した。先生とバットのその後は知らない。

以来、ソフトボール、軟式野球とバットを使う事はしばしばやった。それに引替え、万年筆を使うことはあまりなかった。仕事で使ったのは鉛筆とボールペンだったと思う。それも引け目を感じながら書いてきた。字が巧いなぁと思う方々は結構大勢いる。下手だなぁと思う人は皆無に近い。自分の書いた字が読めないことがある。一流の下手くそだ。

時を経て、ワープロ、パソコンと文章表現の自由を与えてくれた。世の中の進歩で一番感謝しているのは、これらの機器だ。今こうやって駄文を書けるのも、そのお蔭だ。

モンブランの万年筆が手元にある。もちろんインクは入っていない。



では小噺を一つ



Made in china



官房長官に記者が質問をした。

記者「アベノマスクは行き渡ったようですね?」

長官「はい、小さいとか、汚いとか、一部に不具合があったのは事実ですが・・・発注先の一部を国内に切り替えまして・・」

記者「助成金の方は、一部にしか届いてないようですが?」

長官「はい、遅れているという報告を受けております・・・」

記者「遅れているのは何故ですか?」

長官「はい、発注先に問題がありまして・・・」

記者「発注先ですか?」

長官「はい、助成金は、小さいとか汚れがあったりするのは拙いと考えまし  て、全てを国内に切り替え、・・ハイ」



20207

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