訛り懐かし
ふるさとの訛りなつかし震災の
がれきの中にそを聴くこともなし
岩手県大槌町の港へ行った。一年前のことである。大震災から一年が経っていた。船着き場は地盤沈下で突端の方は海に沈みかけていた。休止している魚市場の端にテントがけがされていて、そこから青年が顔を出した。岸壁の向こうに見える島の松が海の盛り上がりで見えなくなった。そう思ったら海が襲ってきた。逃げた。途中でこけていた子供二人を引きずるようにして逃げた。地震の後一度家に行き、港へ引き返した時の出来事だった。青年は恐ろしい出来事、経験を語ってくれた。多くのことを話してくれた。津波の恐ろしさは十分に伝えられ、港へ引き返した理由とか、家族の安否について判らないところはあったが、追加の質問はできなかった。彼の話は臨場感を持って伝えられた。ところが、そこが大槌であることに少し違和感を覚えた。この大槌の青年の話には訛りがなく、特有なイントネーションのかけらもなかった。
私はこの大槌町の隣、釜石に二回、延にして七年ほど住んでいたことがある。人生の10%を過ごした故郷の一部だ。
初めは50年前になる。釜石へは社会人として一歩を踏み出したのが50年前で、大槌町の岸壁で話を聞くことができたのは、その同期会の50周年記念でこちらへ来たのだ。
その第一歩の時、この地の人たちの会話を理解するのにかなり苦戦をした。
「・・・・・・・ダベカ!?」
製鉄会社新入社員には受けるべき教育計画があり、その中の一つとして現場実習があった。私は品質管理課に配属されたので、実習現場は製鉄所内の大方全部門に出向いた。
「・・・・・・・ダベカ!?」は大形工場での実習中だったと記憶している。大形工場というのはレールの圧延などを行う工場で、一番始めの新幹線のレールを圧延したこともある。その詰め所にいたときに電話がかかってきた。受話器をとったのはいいが「・・・・・・・」は全く耳に入ってこなかった。聞こえたのは「ダベカ!?」だけである。すぐに指導員に「スミマセン!」と謝りながら、受話器を渡した。最近TVを見ているとこの時のことを思い出す放送に出くわす。チマチョゴリを着けたおばさん姉さんが恭しく「・・・・・・・」の最後に「・ニダ!」と唱える。いちばん近い国の言葉だ。外国語だ。最後の「・ニダ!」だけしか耳に入らない。大形工場での電話の時も「・・・・・・・」の部分は外国語と変わらない。聞き取れないのだ。そういう記憶があるから「・・・・・・・ニダ!」を聞くたびに50年前の「・・・・・・・ダベカ!?」を思い出す。
二度目の釜石は35年ほど前になる。親子4人で住んでいた。
「はぁ、すみません。何でしょうか?」
「ケサトッタバリノモロコスチビダドモ、カッテケネベカ」
「はい、何でしょうか?」
「ケサトッタバリノモロコスチビダドモ、カッテケネベカ」
「あぁ、見せていただけませんか」
休みの日、朝寝坊していると家内が玄関先で応対している声が聞こえてきた。
「ケサトッタバリノモロコスチビダー」
「荷物をおろして、風呂敷を開けてくれませんか」
一度目の釜石で私の語学はかなり上達していた。家内は新米だから判らないのだが、私には完ぺきに理解できた。寝床から通訳を買って出ようかと思った。
「あぁ、トウモロコシですか。美味しそうですね」
通訳は無用だった。風呂敷の中身を見れば話は進む。値段と本数の折り合いがついたようで、行商のおばちゃんらしい声の主は帰った。
「チビ、チビって言うから何か小さなものかと思ったら、結構立派なトウモロコシだわ」
家内の方が語学に才能があるらしい。私は初期においては「・・・・・・・ダベカ!?」だったが、少なくとも家内は「・・チビ・・」は聞こえたのだ。聞こえたとはいえ「ボタン&リボン」が「バッテンボー」と聞こえるのに近い。語学に通じていない方も見えるだろうから、説明をする。「チビ」と聞こえたのは「キビ」のことだ。「キ」はしばしば「チ」となる。「ツ」とも聞こえる。とりあえず「チビ」はキビ団子のキビだ。そこへモロコスが付いている。モロコスはモロコシで唐の訓読みだ。唐黍の唐を訓読みすればモロコシキビだ。音読みならトウキビだ。不思議なことに一般的にはこれをトウモロコシと呼ぶ。なぜかしら唐が重なり、黍は消えている。この辺りは私の語学知識では判らない。余談はさておいて、行商のおばさんは採りたてのモロコシキビを担いできたのだ。風呂敷まで開けさせたから、買わないわけにはいかない。言葉が通じなかったことで、見事に売上げることができた。
それから2年ほど経った日の夕食の時だ。
「おらは・」
中学生だった娘が言いかけてやめた。やめたというより絶句したという方が正しい。その日の夕食にはそれに続いての家族団欒の会話は無かった。娘は何も言わなかったことにしたかったようだし、親も弟も聞き返さなかった。
彼女は「おらは」と言った。発音は「ORAHA」である。後日、家内が言った。息子が外で友達と遊んでいるとき、彼らの会話の大半は聞き取れない。完全なバイリンガルになっている。娘も学校など、家の外では当地の言葉を話しているのだろう。それを家で使ってしまった。つかったこと自体ではなく、自分のことを「おら」だとか「おれ」と日ごろ言っているのは内緒にしておきたかったのだ。「おれ」「おら」を女の子は使わない習慣を釜石へ来る前に習得している。
「おらは」のうち「おら」は勿論第一人称である。「は」は多分係助詞のそれだ。係助詞の「は」は書くときには「は」だが、発音は「わ」だ。歴史的に、係助詞は「は」と発音したのではなかろうか。それが時を経て「わ」と発音するようになった。その残滓がこの地方の方言に残っている。書く方はそのままにしたので「は」と書く。本当か? 珍説を唱えるのは得意だ。本気にしてはいけない。
当否はとにかくとして、このことで神経を使うことがある。日系ブラジル人のS美さんは日本語を話すが、書けない。今はサントスに住んでいて、メールのやり取りをしている。メールは日本語が基本で、ポルトガル語混じりのローマ字書きだ。パソコンで日本語をローマ字書きするときには、「ん」を「nn」と打たないようにすることと、係助詞の「は」を「ha」ではなく。「wa」と打つことだ。
あれから35年。娘も息子も離れて暮らしている。彼らが今でもバイリンガルであるかどうかは分からない。
大槌港から戻って、釜石に泊った。ホテルの受付嬢も食堂のおかみさんも、橋上市場のおばちゃんも訛りがなかった。みんな忘れてしまったのだろうか。ときどき名古屋界隈に住んでいる釜石出身者のOB会が催される。そこで交わされる会話には、訛りがある。
停車場や現地ではなく、当地のOB会でそを聴いている。
一年前ではなく、最近の小噺をひとつ。
病気自慢
年寄りが集まると、あそこが痛い、ここが痒いと病気自慢が始まります。中には自分が患ってなくても、結構病気に詳しい人もいます。
日中韓の老人が病気自慢をしておりました。中国の老人がひどく咳き込みながら言いました。
中「いやぁ、例のPM2.5にすっかりやられてしまった。ゴホン!」
日「なんだ、PM2.5なんぞはかなり昔から日本にはあって、公害技術ですっかり退治した」
中「ゴホン! 何を言うか。PM2.5はわが国の開発したもので、完全国産技術で発生させている。決して日本からのパクリなどではない」
韓「二人とも歴史を知らないな。二人が使っている漢字にしろ、何にしろ、多くの文化はわが国が起源だ。PM2.5だってわが国のウリジナルに相違ない」
(2013.3)
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